無財の七施
今では、お葬式やご法事の時などに、お経を読んでくださった僧侶に「対価」として包むお金のことを差すようになっています。
でも、よくよく調べてみると本来の意味は、だいぶ違うようです。
「布施」とは、「見返りを求めない心」のことを指すようです。
お経を読んでくれた見返りはいりませんよ、が差し上げる「御布施」であり、戴いた僧侶はその金額に対してもっとくれなどの見返りを求めてはならない、、、本来はそうした意味のようです。
私たちが、お布施を渡す見返りは求めない代わりに「足がしびれないくらいに短めにやって」と心の中で思ってたりします(これも立派な見返り)。
そして、金額を見た御住職が「足りないですよ」の代わりに「これは違いますよ」と返してよこしたり、法事などのお経を読むときの相場を値段表にして、〇〇万円以上と明確にしているお寺もあるようです。
うーーむ、なんだか嫌な世の中になってきましたね。
では、話をかえましょう。
私たちが日常生活の中で、見返りを求めずともできる「無財の七施」について、筆者が調べた限りをご説明いたします。
眼施
温かい眼差しで接する。誰にでも失敗はあるし、自分がその失敗をしないとは限らないので、温かい眼差しを持つのです。
和顔悦色施
明るい笑顔、やさしい微笑みをたたえた笑顔で接する。自分の心が辛いと、笑顔になれない時があります。そんな時は、奥歯を強めに噛むと、口角が上がって、微笑んでるように見えます。歯を食いしばらなければならない辛い時こそ、微笑みの表情になれるのです。
言辞施
心からのやさしい言葉をかけていく。やさしい言葉は難しいかもしれません。でも人には言葉があって、言い方一つでやさしい言葉を使える唯一の動物なのですね。
身施
肉体を使って人のため、社会のために働くこと。無料奉仕。無料奉仕は、広い意味でボランティアとは違います。有料のボランティアも存在するからです。自分にできることをできるだけ「させていただく」そんな心を持ちたいものですね。
心施
「ありがとう」「すいません」などの感謝の言葉を述べる。でも、できるだけ「ありがとう」の方が、聞いてて気持ちいですし、自分の心も前向きになれます。
座施
場所や席を譲り合う。これもなかなかできませんし、譲ってもらう方になりがちですが、10回に1回は譲る側になるように心がけたいものですね。
房舎施
訪ねてくる人があれば一宿一飯の施しを与え、労をねぎらう。これ、現代ではとても難しいことですが、昔話の「鶴の恩返し」とかに例えたらあり得ますよね。
どうやら、私には布施に難しいことは要らないように思えました。
人が人として人に接する、それだけのことのような気がします。