ご供養は人間にだけ?

サンススクリッド語で「供養」の言葉のもとの意味は、「塗る」「彩る」という意味を持つ「プージャナ」という言葉であるそうです。

それは祖先の霊に対して、「供物」を捧げることに意味を発しているとも考えられているそうです。

それが、さらに発展して、先祖の霊や仏を敬い、その教えに則って修行するろいう意味にもなりました。

ですので、本来の供養とは修行することによってしか、なされないものであったようです。

現在では供養は、仏教行事全般を指します。

亡くなった人に対して行うのは「追善供養」(ついぜんくよう)。

無縁仏に対して行われるのは、「施餓鬼供養」(せがきくよう)。

仏像が完成した時は、「開眼供養」(かいげんくよう)。

これらの他にも供養はたくさんあります。

人形供養、動物供養、虫供養、さらには明らかに無生物であるところの針供養などなど。

人形供養も無生物であることにかわりはありませんが、人型であるので供養する気持ちは理解できます。

また動物供養や虫供養、漁業関係者による魚供養なども、我々日本人にとって理解の難しいことではありません。

しかし、日本人であっても不思議になるのが、針など、無生物にまで及ぶ供養の意識です。

針供養は、二月と十二月八日には針仕事を休み、折れた針や錆びた針豆腐にさして供養したそうです。

なんとも不思議で、暖かい気持ちになるようでもあり、少し恐ろしい気持ちになるようでもあります。

昔は針一本製造するのも大変な仕事でしたでしょうし、針仕事は家庭を支える重要な仕事の一つでしたので、「針」が供養されたのかもしれません。

日本人の針にまで及ぶ感謝の心を感じるとも言えますし、全てのものに神様が宿っていたと考えていた昔の人達の意識に触れるようでもあります。